プロレスの歴史を作って来たスーパースターたち往年の勇姿と現在の素顔を追った感動のドキュメント 数十年に渡り、ショービジネスの本場アメリカにあって、娯楽の中心であり続けたアメリカンプロレス。
その人気を支えたのは個性溢れる様々なスターレスラー達であった。
彼らの往年の名勝負、現在の姿、インタビュー、メッセージなどで構成されたファン感涙のドキュメント。
第9弾はディック・スレーターとタリー・ブランチャード。
右利きのテリー”喧嘩番長” ディック・スレーター テリー・ファンクの弟分として全日本プロレスマットで人気を集め、無鉄砲で荒々しいファイトスタイルから喧嘩番長と呼ばれた。
タンパ大学時代はレスリングとフットボールで活躍。
ヒロ・マツダの下でトレーニングし、1972年にフロリダCWFマットでデビューした。
ラフファイトが得意な若手ヒールとしてダスティ・ローデスとコンビを組み、1975年からはジョージアに転戦してボブ・オートンJrとの喧嘩屋タッグで活躍。
1977年には中西部地区に参戦し、ジャック・ブリスコからミズーリヘビー級王座を奪取。
NWA次期王者候補として注目されたが、その後フロリダに戻り、南部ヘビー級王座、USタッグ王座、フロリダヘビー級王座などを次々に戴冠した。
日本マットには、ファンク・ファミリーの一員として1974年に初来日。
テリー・ファンクにそっくりなファイトスタイルで「右利きのテリー」と呼ばれ、常連外人となった。
1980年の第8回チャンピオンカーニバルでは、テリー、ブッチャーらの大物を抑えて決勝に進出。
ジャンボ鶴田と優勝を争い、名実共にトップレスラーとなった。
UNヘビー級王座、インタータッグ王座に度々挑戦し、世界最強タッグにも4度出場するなど、実に通算17度に渡って全日本プロレスマットに参戦した。
アメリカマットでは、1983年よりミッドアトラティック地区でリック・フレアーと抗争を繰り広げ、1986年後半にはザ・レベルのニックネームでWWF マットに登場。
ドン・ムラコ、アイアン・シークらと闘った。
1996年、背骨の負傷がもとで引退。
塀の中の宣教師 タリー・ブランチャード 1980年代にリック・フレアーを中心に結成され、アメリカマットで一世を風靡した「フォー・ホースメン」オリジナルメンバーの一人。
ジノ・ヘルナンデスとのダイナミックデュオ、アーン・アンダーソンとのブレーンバスターズで知られるタッグの名手。
AWAマットで活躍したジョー・アンダーソンを父に持ち、ウエストテキサス大学時代にはテッド・デビアスやティト・サンタナらと共にフットボール部に所属。
卒業後の1975年、SCWマットで父親との親子タッグを組みデビュー。
ザ・ファンクスらとの抗争で力を付けた。
1981年、ジノ・ヘルナンデスとダイナミックデュオを結成。
サウスウエストタッグ王座を通算5度に渡って保持するなど、悪役コンビとして大活躍をした。
1986年1月、リック・フレアーとの伝説的ユニット「フォー・ホースメン」を結成。
人気悪役としてNWAマットを席巻した。
1987年9月、アーン・アンダーソンとのコンビでNWA世界タッグ王座を獲得。
1988年後半にはアンダーソンとのコンビでWWFに登場。
ブレーンバスターズの名前で、ブリティッシュブルドッグス、ハートファウンデーションらと闘い、1989年7月にはデモリッションを破ってWWF世界タッグ王座を奪取。
NWA王座との2大タッグ王座を制した。
しかし同年10月ドラッグテストにかかりWWFマットを離脱。
1990年にセミリタイアした。
その後はプロテスタントの説教師となり、宣教活動を行いながら、インディ団体の試合に時折出場。
1995年10月には大阪で「無我」旗揚げ戦に参戦し、藤波辰爾と闘った。
収録時間:105分 ギフト対応 ・ラッピングをご希望の場合は、ご注文時のその他ご要望欄に「ラッピング希望」とご記入ください。
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